公事根源によると、729年(天平元年)、聖武天皇の時代、宮中で衆僧を召して『大般若経』を読経させる季御読経の制度が始まり、2日目の衆僧に茶を賜る儀式を「引茶」または「行茶」と称したのが最初と言われている。当時の茶は、砕いた団茶を薬研で挽いて粉末にし沸騰した釜の中に投じ、茶盞に入れるもので、抹茶ではなかった。
『竈の賑ひ : 日用助食』は「大和國揚茶粥 大和國は農家にても、一日に四五度宛の茶粥を食する也、聖武天皇の御宇、南都大佛御建立の時、民家各かゆを食し米を喰のばして、御造營の御手傳ひをしたりしより、專らかゆを用る事と云傳ふ、奈良茶といへるは是より出たる事とぞ」と、茶粥の始まりが奈良時代であると記している[4]。
これらの記述は後世に書かれたもので実証性には乏しい。しかし、正倉院文書には、758年(天平宝字2年)の「末醤、滓醤、酢、油、糯米、大豆、小豆、漬菜、青瓜、茄子、水葱、搗滑海藻(標出)茶、薪、松、柏」をはじめ、「茶」の文字が見え、奈良時代に奈良の都で茶が存在したことは確かである。
大和茶のおこりについては、以下のように紹介されている。
「大和茶は大同元年(806年)に弘法大師が唐より帰朝の際茶の種子を持ちかえり、これを現在の宇陀市榛原赤埴に播種して、その製法を伝えられました。またその際持ち帰った茶臼は赤埴の仏隆寺に現在も保存されております。茶の実もまた同境内に「苔の園」として保存されており、これが「大和茶」の初めとも言われております。」[5]
もっとも、波多野村の住人、吉田太郎兵衛が江州の信楽からチャの実を買い入れ、約70aに蒔いたともいわれている。奈良は仏教史跡、寺院も多く、仏教との関係で茶も広まり、一方ではヤマチャも諸所にあり、それなりに利用されたとされる。[6]
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